五井野正博士のその他の原稿

2015年5月27日(水)

クレポンとジャポネズリーの違い

ゴッホの書簡は1886年のパリ時代まで、一部英語の手紙があるが、ほとんどが母国語のオランダ語で書かれている。

 翌年の1887年からゴッホの手紙は弟テオに対してもフランス語で書かれるようになるが実はテオだけでなく、家族、友人に対して一度も、“浮世絵”と言う言葉を書簡の中で使ってはいないのだ。

 この事から当時の印象派画家やフランス社会では浮世絵と言う言葉は使われていない事が推測されてくる。

 ここで浮世絵と言う言葉について学説が諸説あって定まっていないので若干この事に説明を加えてみよう。

 ゴッホの書簡の中で浮世絵、もしくは類似する絵画の言葉として使用している単語を探し出してみると、1885年11月28日にアントウェルペンでテオに出された書簡437の「Japanse prentjes」(日本版画)というオランダ語が最初である。

 「ぼくの画室は、かなり(nogal)耐え忍べる(dragelijk)。特に(vooral)、僕が日本版画(Japanse prentjes)の画帖(een partij)コレクション全部(toute une collection)を壁一面に(murs)にピン(èpingiè)で止めて以来、私を非常に(erg)楽しませて(amuseren)くれる。
君も知っているとおり、海辺の上、あるいは庭園の中にいる小顔(petites figures)な女たちの絵とか、馬の上に乗った人たちとか、花とか、枝節の多い(des branches noueuses)サンザシ (d’aubépine)とかの絵だ」   
(テオ宛 書簡425 アントウェルペン 1885年11月28日 土曜日の晩)

 ところで、このオランダ語原文が英訳文ではどう云う訳か、<a lot of small japanese prints>と訳された為に英文から日本語に訳されると、<たくさんの小さな日本版画>と言う訳文になってしまった。

 すると、小さな日本版画とは何か?と考えると、ゴッホはこの後、1888年アルルでの書簡でクレポンという記述を度々しているので、小さな日本版画とはクレポンという意味にも取れてしまう。

 作家のアンリ・ペリュショはこの英訳文から想像をたくましくして「ゴッホの生涯」の著作の中で、ゴッホはアントウェルペンの港で船員からクレポンを一組買ったと記述した。

 すると、ペリュショの書いたフィクションが真実の話としてゴッホ研究家に取り入れられ、ゴッホがクレポンつまり、浮世絵と最初に出会ったのはアントウェルペンとなってしまった。

 しかし、書簡437の記述ではゴッホが説明しているところの日本版画はテオが以前に見たことがある筈だと述べているからゴッホが浮世絵を手にしたのはアントウェルペンの港よりもずっと前という事になる。

 すると、アントウェルペン以前にゴッホとテオが出合った時となると、ニュウネンやハーグ時代まで遡ってしまう。

 そこで、ハーグ時代と言えば、ゴッホがシーンと一緒に暮らしていた時代になり、テオが1882年と1883年の夏にハーグのゴッホの家に訪れていた時となる。

 しかし、このハーグ時代にもゴッホの書簡から浮世絵と言う言葉も日本版画と言う言葉も見出すことは出来ない。

 その代わり、友人のアントン・ファン・ラッパルトに出した1883年3月の書簡R30で、初めて日本に関した記述が出てくる。ゴッホはその書簡の中で挿絵画家であるF・レガメの「日本の孤児院」という作品を非常に美しいと賞賛し、さらに彼が日本の芸術に詳しいということを述べている。

 F・レガメとはフランスの国立ギメ美術館コレクションの母体となった実業家エミール・ギメと一緒に日本旅行をしたフェリックス・レガメのことで、帰国後にギメが文章を書いて、レガメが挿絵を描いた旅行記「日本散策」(1878、1880年に2巻)が発行された。

 さらに4ヶ月後の1883年7月、今度はテオに

 「彼(フェリックス・レガメ)は日本のものをよく複製にしている」 
(書簡298 ハーグ 1883年7月上旬頃)

 と述べるが、F・レガメが挿絵画家であることから、ここで日本のものと表現されたものは恐らく日本の絵のことを指しているだろう。

 また一ヵ月後の書簡309でもゴッホはテオにF・レガメは日本人を描いていると記述している。

 つまりハーグ時代の1883年の7月に入ってゴッホとテオの間に日本のことや日本の絵が共通な関心事になっていたと考えられてくる訳である。

 とすれば、ゴッホが仮にテオに日本版画を見せた可能性を考えると、その前にテオと会った時は1882年の夏になる。

 そこでもし、ゴッホが1882年の夏に書簡437の日本版画をテオに見せていたとすればそれ以前にゴッホはその日本版画を手に入れていなければならない。

 それはゴッホとシーンが出会った1月末から、一緒に生活する7月中旬頃の間の可能性が高く、つまりシーンと浮世絵が実は運命的に大きくかかわってくることを後編で明らかにしてみたい。

 いずれにしてもハーグ、ドレンテ、ニュウネン時代を通して、ゴッホの書簡からは浮世絵に相当する言葉は見つけられない。

そ して、アントウェルペンの書簡に書かれた「Japanse prentjes」(日本版画)の後に公開されたゴッホの書簡の中で、浮世絵に相当する言葉が使われたのは1888年3月、アルルからベルナール宛に出された最初の手紙に書かれた「les crèpons」(クレポン)という言葉が最初になる。

「私は先ずこの地方(Le pays)が透き通った(limpidité)空気と明るい色彩効果としての日本と同じように美しく見えるということを伝えることから始めたい。

水は綺麗なエメラルド色の斑点(tache)を作り出し、我々がクレポン(crèpons)の中で見たように風景の中に濃紺色(riche)の青を添えている」
(ベルナール宛 書簡B2 アルル1888年3月)

 と、ここでゴッホは浮世絵を表す言葉としてクレポン(crèpons)と言う言葉を書簡の中で初めて使っている。そしてゴッホはこの手紙と一緒にアルルの跳ね橋のデッサン(図1)をベルナールに送る。

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図1

 ここで重要なことはゴッホがアルルから最初に送ったデッサンが橋の図であることだ。そして、ベルナールに

 「水は綺麗なエメラルド色の斑点を作り出し、我々がクレポンの中で見たように風景の中に濃紺色の青を添えている」

 と、述べている事である。つまり、橋の下の川の色がエメラルド色の斑点に濃紺色の青を添えていると表現された絵と言えば将にゴッホが描いた『雨中の大橋』そのものであることに気が付くであろう。

 そして、ゴッホは、「我々がクレポンの中で見たように」とベルナールに述べている事から、『雨中の大橋』の原画が「japonaiseries」(美術品としての浮世絵)ではなく、クレポンだったと言うことをこの書簡が示唆していると言えよう。

 クレポンとは浮世絵を上下左右に60パーセントくらいまで縮めてちりめん上の版画にしたもので、元の浮世絵と比べると随分と小さくなるが、小さく縮めた分だけ実に彩度が強くなり、絵柄も立体的になって油絵風の絵画に近くなってくる。

 しかし、材質が紙のために浮世絵よりも破れやすく、又引き伸ばされるなどして形が崩れやすい。
 そこで裏張りの紙で補強をして絵全体を安定させるのである。

 それゆえ、「crèpon」(クレポン)と言う言葉は旺文社発行のプチ・ロワイヤル仏和辞典で [片ちりめんの厚手のクレープ] と説明されることになる。

 「crêpe」(クレープ)は[ちりめん]と説明されているから結局、「crèpon」(クレポン)と言う言葉は[片ちりめんの厚手のちりめん]という意味になる。

 又、クレポンは明治以降、紙製のナフキンやハンカチなどの外国人のおみやげ用や輸出用紙製の工芸印刷物としても多量に作られた。

 この事からクレポンは版画の絵と言うより、工芸品のイメージの方が強いのである。今で言うと、スカーフやハンカチ、Tシャツに浮世絵が印刷されたものと思えば理解しやすい。

 浮世絵は今でこそ美術品であるが、当時はチラシや絵本の類でしか作られておらず、クレポンに加工したほうが工芸品としての価値が高まる為、土産品として大量に作られた。

しかし、工芸品としての加工商品のイメージが強いため、今となっては美術品となった浮世絵と比べて美術的評価や価格も極端に下がってしまった。

 しかし、ゴッホは値段と価値の基準とは全く関係なくクレポンをゴッホが尊敬しているリューベンスの絵と同じ様に評価し、又どれだけ愛していたかはテオに宛てた手紙の中で

 「しかし、誰がどう言おうと下品(vulgaires)な色で漆喰なトーン(tons)に塗られたクレポン(crépons)は僕にとってリューベンス(Rubens)やヴェロネーズ(Vérone`se)と同じ理由で素晴らしい(admirables)ものなのだ。、、、、、、、、、、、、、、
(前略)日本美術(japonaiserie)の真面目な愛好家、例えばレビィ(Lévy)自身に
『もしもし(Monsieur)、私はこの5スーのクレポン(crépons)が素晴らしい(admirables)と思わずにはいられないんですよ』
と言ったならば、彼は必ず、僕の無知(ignorance)、僕の悪趣味として気の毒に思って(et aurait pitié)あるいは、ちょと気を悪く(un peu choqué)するはずだ」
(書簡542 アルル1888年9月下旬)

 と記述していることで分かる。しかし、ここでゴッホが述べているクレポンは下品な色で漆喰の様に塗ったクレポンになっている。

 これは安手の赤の化学染料で使われた赤絵と呼ばれる明治版画をクレポンにした物で、このクレポンを実際に見たことがある人ならすぐにこの記述に納得するだろう。

 この書簡でもゴッホはハッキリと日本美術アート(japonaiserie)とクレポン(crépons)とを別けていることに注目したい。

 つまり、クレポンは美術品にもならない価値の低いものと一般的に思われている事がこの書簡で分かるからだ。

 又、クレポンの価値として5スーの価格というのは当時の四分の一フランに当たり、現在の価値で言うと、パンが買える程度の金額に相当する。

恐らく工芸品のクレポンは子供でも買えるような値段でどんどん日本から当時輸入されていたからゴッホにクレポンを売っていたサミエル・ビングは美術商と言うよりは輸入商の感覚だっただろう。

「ビング(Bing)の店の屋根裏には10万点ほどの風景(paysages)や人物(figures)のクレポン(crépons)、古い(anciens)クレポンがどっさりとある」
(書簡510 アルル 1888年)

 古いクレポンというのは江戸時代の版画、つまり浮世絵をちりめん状にしたクレポンのことだろう。

 浮世絵のクレポンは明治版画のクレポンと違って鮮やかで油絵のようで、ゆえに芸術家の眼で見たら浮世絵よりも素晴らしいものである。

 と言っても、クレポンとはどんなものか実物を見なければ辞書に書いている記述やゴッホが記述している意味も実のところ良く分からないと思う。

 そこで、実際にクレポンの実物を見ればクレポンの特色が分かり、ゴッホが描いた油絵の『雨中の大橋』が実は浮世絵からでなく、浮世絵を縮めたクレポンから写されていることが分かってくるのだ。

 そして、クレポンそのものがわかれば学者や美術評論家や、ゴッホの研究家たちが、“点描”と言っているのは実はクレポンタッチの事を言っているのだと分かってくる。

 次に、クレポンの言葉以外に浮世絵を指す言葉が使われたのは書簡500の、

「僕らは日本絵画(La peinture Japonais)が好きで、その影響を受け、全ての印象派の画家に共通することだが」
(ゴッホ書簡500 アルル 1888年6月上旬)

 で記述される「peinture japonaise」(日本絵画)、そして書簡505の、

「ビングが日本(japonaise)の展覧会を催し、日本芸術(l’art japonais)の雑誌を出しているという話を読んだ。君はそれを見ただろうか。僕は日本版画(japonaiseries)をなおもどっさり買えないのをときどき困ったことだと思っている」
(書簡505 アルル 1888 年7月頃)

 に記述される「l’art japonais」(日本芸術)、そして「japonaiseries」(日本版画)である。ゴッホの書簡と当時の浮世絵事情を慎重に分析すればゴッホはきちんとそれぞれの言葉を使って分類していることがわかる。

 と言うのも、ゴッホが「les crèpons」(クレポン)や「japonaiseries」(ジャポネズリー)と言う言葉を使った1888年は日本では明治20年に当たり、浮世絵は廃れて明治版画の時代に入っているからである。

 そこで、ゴッホの日本版画コレクションの中には明治版画もあるが、明治版画はクレポンと同様に安価だからゴッホがどっさりと買えないと嘆くほどでないからjaponaiseries(ジャポネズリー)には明治版画は含まれないと考える。

 そして、ゴッホはjaponaiseries(ジャポネズリー)を自分で作ってみるしかないとテオに述べているがこの場合、日本版画を作ることではなく日本版画様式の油絵作品を作る事を意味している。

 具体的にはパリ時代のジャポネズリー作品の様に浮世絵風油絵の事になる。それは書簡505の3ヶ月後の手紙で、

「本当に(vrai)僕たちは彼らオランダ人のように額縁入りの絵画(tableaux)を製作してはいないけれど、君と僕、僕たちはクレポン(crèpons)の様な絵画と全く同種なものを製作しているんだ」(書簡555 アルル 1888年10月17日)

 と記述されるところの “クレポン(crèpons)の様な同種の絵画”なのである。
ここで、オランダ人が描く絵画と言うのはゴッホが浮世絵の影響を受ける前に描いていたオランダ絵画を指しているのだろう。

 そのオランダ絵画はオランダが生んだ巨匠レンブラントの絵画に代表される様なオランダの伝統的絵画様式であるが浮世絵風油絵と比較すると明らかに背景全体が灰褐色で暗い絵画の印象を受ける。

 又、ゴッホの書簡通りに論を進めると、japonaiseries(ジャポネズリー)は、“クレポン(crèpons)の様な同種の絵画”となることから、ゴッホはjaponaiseries(ジャポネズリー)とcrèpons (クレポン)を同種の絵画と見ても、別なものとして使い分けている事がわかる。

 それは、ゴッホが末妹ウィレミーンにアルルから宛てた手紙の記述からも理解されるだろう。

「僕は今日、日本のクレポン(crèpon japonais)の様な何かのデッサンをテオに宛てて送った。テオは君にjaponaiseries(日本版画又は浮世絵)を贈ったと僕に書いてきた、(前略) 僕の方はここにjaponaiseriesを置いておく必要はない」
(末妹ウィレミーン宛、W71 アルル1888年9月8日)

 という手紙から、ゴッホは明らかにクレポンとジャポネズリーとを使い分けていることがわかるのだ。

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