五井野正博士のその他の原稿

2015年5月28日(木)

Impression(インプレッション)=印象ではなく “浮世絵”が正訳


浮世絵はマネやモネ、ゴッホ等のImpressionniste(インプレッションニスト)たちの評価によって今日では世界の美術品となっている。

 それゆえ、浮世絵の研究家や評論家は浮世絵の展覧会、講演などで浮世絵について外国人に説明する機会が多くなるが、その時に一番問題となるのが専門用語の翻訳である。

 翻訳された言葉がそのまま、完璧な言語として互いが理解し合うとなると、現実的に言えば翻訳者はその分野での完璧な専門家で無いので、仮に完璧な翻訳を翻訳者に期待するとすればそれは遠くの小鳥をショットガンで打ち落としてくれるのを期待しているようなものだろう。

 つまり、よほどのプロフェッショナルでなければ、良くてもかすめる程度でまず当たらないと考えるべきである。

 それでも一応、小鳥の飛んでいる方向に弾が飛んでいるから散乱銃ならばきっと撃ち落せると信じ込めるかもしれない。

 つまり、翻訳の時に外来語の単語には様々の意味が書かれているから、そのうちのどれか一つの意味をうまく翻訳文にあてはめれば、何とか翻訳できるという意味である。

 しかし、時として誤解を招いたり笑いをさそったりすることもある。

 例えば浮世絵の紙である和紙のことを英語でライス・ペーパーと翻訳されているのには日本人として笑ってしまうだろう。

 ところが、外人の場合は和紙が米から出来ていると真面目に誤解したまま浮世絵を理解するのできちんと専門家はこの事を説明しておかないと大変な事になる。

 例えば、保管の悪い浮世絵に虫食いと呼ばれる穴が時々ある。

 外国人はライス・ペーパーだから虫が好んで食べるのだろうと納得してしまう。

 と言うのも、今の西洋紙は木材を細かく切り刻み、酸液処理によって純粋なセルロース繊維を取り出したパルプから作られた酸性紙なので虫が食いにくいからである。

 ところが、浮世絵の原紙である和紙は楮(こうぞ)、三椏(みつまた)の樹皮から作られる中性紙なので虫が好んで食べてしまう。

 つまりライスから出来ているから虫が食うのではないのだ。

 そこで、「和紙」の他の意味の単語を探し出すと「japan (ese)paper」(日本紙)とある。どう考えてもこちらの単語に訳す方が無難である。

 ところで、和紙の歴史は古く、7世紀の飛鳥時代にまで遡ることができる。

 8世紀の奈良時代に入ると製紙産業が全国にまたがり多くの紙が経典の書写や官史の記録等に消費される。

 そして平安時代に入ると日本独自の〈流(ながれ)漉(す)き〉の製法が確立され「枕草子」(1001年)や「源氏物語」(1004年-11年)等の文学作品にも使用されてくる。

 12世紀初頭には早くも和紙の加工技術は頂点を迎えるが、西欧で製紙が開始されるのはそれよりも後の12世紀後半になってからである。

 17世紀には早くも東インド会社による日(にち)蘭(らん)貿易によって和紙が西欧に輸出され、オランダの巨匠レンブラント(1606年-69年)が銅版画や素描用に使用することになる。

 和紙が使われた理由は先ずインクの乗りが良い、次に紙質が強く、長期保存が可能で刷り上りの色合いや質感が優れているなど、美術版画に最適な紙として重宝された。

 その後、西欧画家で和紙を版画に使用したのは1860年代になるが、米国生まれの英国人、ホイッスラーである。

 彼は1864年に『Caprice in purple and gold、The golden screen <紫と金色の狂想―金屏風>』(図1)の作品を描き、絵中に浮世絵を描いている。

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(図1) 米国 フリア・ギャラリー蔵

 和紙とは逆に、日本でも浮世絵用語の訳の違いによって誤解を招き易い単語にimpression(インプレッション)と云う言葉がある。

 どんな美術書にもインプレッションを印象と訳し、モネやマネ、ルノワールやゴッホなど浮世絵の影響によって生まれたImpressionniste(インプレッショニスト)たちを印象派画家と訳している。

 ところが、このimpression(インプレッション)と云う単語、海外のオークションカタログに掲載された浮世絵の説明項には必ずと言っていいほど記述されているが、実は印象という意味ではなく別な意味で使われているのである。

 つまり、浮世絵を含む版画の説明事項には画家の名前、発行元に続いてgood impression & color(グット・インプレッション・アンド・カラー)という様な記述を目にする筈だが、この意味を‟良い印象と色”と訳すと誤解する事になる。

 何故なら、このgood impression & colorは、肉筆の浮世絵や絵画、陶器などには全く記述されていないからである。

 ‟良い印象と色”なら肉筆の浮世絵や絵画、陶器などに使われてもおかしくはないだろう。

 そうでないのは、impressionと云う言葉の意味が、実は“摺り”と言う意味だったから肉筆による絵画には使われていないのである。

 それゆえ、good impression & colorとは、“摺り良し、色良し”と云う意味でフランス語ではimpressionが第一義的な意味で“印刷”ひいては“版画”を意味し、プチ・ロワイヤル仏和辞典(第3版旺文社)でも‟印象”のほかに“印刷”と訳され、古語では“刻印”と訳されている。

 つまり、“印象”とか“感動”とかの訳語はそもそも古語の“刻印する”が源になっていて眼に映ったものを刻印する、あるいは頭に刷り込むとかの表現から来る。

 その表現の現実的なものが版画にあたる。今では写真時代ゆえに目に焼きつくとか心に焼きついたとかの表現になるだろう。

 例えばImpressionniste(インプレッションニスト)の出現を小説の世界から予告していたゴンクール兄弟は自らの日記の中で、

「Les malheureux! Ils ne se sont pas aperçus à I'heure qu'il est que tout I'impressionnisme-la mort du bitume, etc., etc.- est fait par la contemplation et I'imitation des impressions claires du Japon」
(残念ながら、彼等自身<ジャナーリスト、記者>、今においての全てのimpressionnisme(インプレッショニスム)が日本の明るく澄んだ版画(impressions)を熟視し、模倣した事実、言わばタール画の終焉、等々に気付いていない)
(ゴンクールの日記 1884年4月19日)

と記述してimpressionを版画と云う意味で使用していることでもはっきりと分かるだろう。さらにエドモン・ゴンクールはこの後の日記で、

「Il semblerait que, dans le commencement,les impressions n'ont été inventées que pour répondre à la passion effrénée du public pour le théâtre et les acteurs, et Outamaro est un des premiers qui, négligeant la figuration des hommes de théâtre, s'est voué exclusivement à la représentation des scènes de la vie intérieure」
(思うにimpressionは初めのうち、芝居や役者に対する大衆の熱狂的な要望に応(こた)えて作られたらしい。それから歌麿が芝居の役者達の似顔絵をやめて、もっぱら市井の人々の生活ぶりを表現する事に専念する最初の画家の一人となった)
(ゴンクールの日記1888年5月13日)

と、浮世絵の歴史を記述していることから、ゴンクールはimpressionと言う言葉を浮世絵の意味に使っていたことになる。

その事は、アンドレ・ミシェル編「美術史」の中で印象主義の章において、

「古典主義がイタリア化で、ロマン主義がイギリス化、そしてréalisme(現実主義)がスペイン化であったならば全く同じ様にしてimpressionnisme(インプレッショニスム)は日本化と言うべきであろう」

 と記述されているのと一致する。

 つまり、impressionnismeが日本化と言うことは、実際にはimpressionnisme(インプレッショニスム)が浮世絵の技法から生まれたから、この場合の日本化とは浮世絵化を意味するからである。

 それゆえ、ここでもimpressionnisme(インプレッショニスム)と浮世絵的主義が同化しており、ゆえにimpression(インプレッション)はエドモン・ゴンクールの記述と同じように “浮世絵”と同じ意味になる。

 そもそもimpressionnisme(インプレッショニスム)と言う言葉が生まれた背景はカフェ・ゲルボアに集まった画家達がクロード・モネの提案により1874年の春にパリのキャピュシーヌ大通り35番地にあった写真家ナダ―ルのスタジオで第一回の独立絵画展を開き、その展覧会の中で発表したモネの『impression―日の出』(図2)の絵の名前から来ている。

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(図2)『impression―日の出』 マルモッタン美術館 所蔵

 この展覧会の正式名は「La Sociéte Anonyme des Artistés Peinters,Sculpteurs,Graveurs,etc 」(画家、彫刻家、版画家等の合資組合)であったが、風刺新聞「シャリヴァリ」の記者ルイ・ルロワがモネの『impression―日の出』を文字って「インプレッションニストの展覧会」と皮肉ったのである。

 すると、このインプレッショニストという言葉が一人歩きして、impressionnisme(インプレッショニスム)の言葉が流行してしまった。

 この時に参加したモネ、ルノワール、セザンヌ、ドガ、ピサロ、シスレー、ギョ―マン、ブラックモン、ベルト・モリゾ等の画家たちを後にインプレッショニストと呼んだ為に、モネの『impression―日の出』とImpressionniste(インプレッションニスト)が混同してしまい、今日の学術的混乱を導いている。

 例えばこの展覧会に参加したドガは1877年に開かれた第3回の展覧会の時、impressionnisme(インプレッショニスム)の言葉の使用が検討されたさいに反対の立場を取った。

 ドガは日本版画主義(浮世絵主義)の意味を表現するimpressionnisme(インプレッショニスム)の言葉を嫌って、「写実派」とか、「自然主義派」とか、もっと幅広いジャンルを考えていたのである。

 そして、ドガは展覧会の名称を「独立派・写実派・インプレッショニスム」とすることを主張した。

 つまり、ドガは自ら「写実派」と主張し、インプレッショニスムの画家とは一線を引いたのである。

 結局、次の1879年の展覧会は「独立派芸術家」という言葉で妥協された。

 つまり、美術史ではドガはimpressionnisme(インプレッショニスム)の中核メンバーと記述されているが、あくまでもドガが「La Sociéte Anonyme des Artistés Peinters,Sculpteurs,Graveurs,etc 」(画家、彫刻家、版画家等の合資組合)の中核メンバーであったと云う事であって、ドガが主張する様にモネの『impression―日の出』と同様なimpressionnisme(インプレッショニスム)絵画に分類されるものではないということを表しているのである。

 と言うことは、impressionが印象という抽象的概念の言葉ではなく、具体的に版画、特に日本の版画・浮世絵を意味するために、ドガは浮世絵の影響を受けたとは云え、浮世絵主義、あるいは浮世絵派と一緒に混合されるのを嫌ったと理解すべきなのである。

 要はImpressionを印象と訳した事が今日に至る美術史の混乱を招いたとも言える。

 ここに整理してみればルイ・ルロワが、「La Sociéte Anonyme des Artistés Peinters, etc, Sculpteurs,Graveurs」(画家、彫刻家、版画家等の合資組合)を「インプレッショニストの展覧会」と皮肉ったのだから、本来ならこの展覧会に参加した画家や彫刻家、版画家、全員がインプレッションニストになっているはずである。

 ところが、今日では画家だけがインプレッションニストと呼ばれているのはインプレッショニストという言葉が“印象主義的な人たち”という広範囲な分野を表す抽象概念の言葉ではなく、絵画に特定した意味を表す言葉であった事に他ならない。

 事実、他の記者は展覧会に参加した人達を政治的な用語である「反乱者」にあてはめたのである。

 つまり、インプレッショニストという言葉が概してうわさになって流行するのはインプレッショニストが“印象派”という新しい流派として迎えられたのではなく、日本版画派・浮世絵派という意味合いで当時、西洋に流行したジャポネズリーに反感を抱いた保守派の人達がこの時とばかりにモネの『impression―日の出』を幼稚で悪趣味的な絵としてジャポネズリーにダブらして侮蔑な意味で広めたのである。

 結局、「インプレッショニスト」の言葉が人々の話題になって、俗語にまでなると、今度は専門家や画家たちの間で「インプレッショニスト」とは何かという定義問題にまでなってくるのは「インプレッショニスト」という言葉が合理性に欠けていたからだろう。

 そこで、「インプレッショニスト」とは「インプレッションニスム」を持った画家だという話になる。

 それゆえ、プチ・ロワイヤル仏和辞典では「impressionnisme」も「Impressionniste」もどちらも印象派と訳されているのは、こうした背景があったからであろう。

 すると、impressionnisme(インプレッショニスム)とは何かとなると「・・・isme」が一般に“・・・主義”と訳されることから、本来なら“impression主義”となるが、それにはimpression (インプレッション)の言葉の由来となったモネの『impression―日の出』にまで立ち返る必要がある。

 そこで先ず、この絵を“印象”という和訳言葉から鑑賞すると、この絵柄のどこが印象なのか、描き方が印象なのか、何が印象なのかと、見方が観念的になってしまい、具体的な理解が得られなくなる。

 要は、モネだけでなくレンブラントの絵もミレーの絵も他の画家の絵も皆、印象的な絵と言えなくはない。

 すると、モネの絵はそれらの画家の絵と何処が違うのか?

 しかも、モネだって印象的でない絵を描くことだってあるだろう。

 例えば同じ頃にモネが描いた『アルジャントウイユのレガッタ』(図3)やその2-3年前に描いた『ラ・グルムイエール』(図4)と比較してみれば『impression―日の出』よりは明らかに写実的であることがわかる。

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(図3)『アルジャントウイユのレガッタ』

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(図4)『ラ・グルムイエール』

 「ジャポニスム 幻想の日本 馬渕明子著 ブリュッケ発行」の中で批評家アルマン・シルヴェストルがモネの『ラ・グルムイエール』の絵を解説しているとも思われる箇所の記述があるが、要はモネが描く水面の揺らぎや、きらめきの効果は日本の絵(浮世絵)から借りてきた可能性があると指摘していることである。

 そして、モネの効果は若い画家に支持され、新参者が成功したのは陽気な色調、明るい画面、絵全体の雰囲気が春の祭りのようで、黄金色の夕べ、花盛りのりんごの木など、どれもが日本の影響だと述べている。

 その様な背景の中でモネはより浮世絵的な絵を強調した、『impression―日の出』を描いたと観るべきである。

 すると、朝もやに包まれた小船の人物はまるで歌川広重の人物画の様であり、さらにこの絵を全体的に観れば、モネがかって描いたような写実画ではなく、将に幼稚で、漫画チックな絵に見えてくる筈である。

 しかしながら、それこそが浮世絵主義的な絵画なのである。 

 そこで、今度はimpressionnisme を“浮世絵主義的”と和訳してみると、確かにこの絵は明るい色を使った日本的(東洋的)な水墨画を油絵で表現した技法(浮世絵的感覚)の絵と観ることによってスンナリと理解できてしまう。

 実際にかつてベルト・モリゾの教師だったピエール・ギシャ―ルは『impression―日の出』などの絵を観て、ベルト・モリゾの母親宛の手紙の中で、

「わざわざ水彩画で描けるものを油絵で表現しようと試みた事についてコレッジオ(水彩画の大家)に許しを得なければなりません」

 と記述していたことからも理解される。

 つまり『impression―日の出』を水彩画と視れば将に和紙の上に水彩色の筆のタッチやにじみが絵の中に充分と表現されて、油絵なのに版画(浮世絵)風の冒険的な絵画と見れば、全く違った評価が出来るのである。

 しかも、海上をたなびく薄い靄の表現を版画の色乗せに用いる刷毛やローラーで塗ったかのように描いているのは却って野心的で大胆な発想として感心する。

 実際に当時、誰しもが何も考えないでこの展覧会の絵を見たならばピエール・ギシャ―ルと同じ様にモネの絵に対して幼い子供が描いた水彩画と感想を漏らしたであろう。

 だが、水彩画である浮世絵を見て、その作者の自由で大胆な表現方法に感動していたモネは浮世絵技法の特長である筆致と色の濃淡による墨ボカシやボカシ摺りの表現方法を油絵、つまりタブロー(完成画)に変えたのである。

 しかも、この絵で最も重要なことは日本の浮世絵師たちが一瞬の動きや情景を絵に線で表現しているところを、モネは油絵でスケッチしている事である。

 例えば、エミール・ベルナールの「ゴッホの書簡・ベルナール宛」の序文や、ゴッホの書簡の中で、

「北斎や歌麿(Outamaro)が文章を書くような容易さでデッサンを描いたように、僕らもやってみようと一緒に計画をたてた」

「日本人が素早く、稲妻のように素早くデッサン出来るのはその神経が我々より繊細で感情が純粋だからだ」
(書簡500 テオ宛 アルル 1888年6月)

 と、あるように西洋の画家は日本の浮世絵師たちが一瞬の光景を稲妻の様に素早くスケッチすると考えていたのである。

 モネも「日の出」の一瞬の情景を正直に見たままに描くとすれば西洋絵画的な方法では当然時間が足りなくなり、デッサンしている間に船の動きや朝もやに包まれた工場の煙も変化してしまうから、浮世絵師の様に素早くデッサンすることを考えていただろう。

 しかしながら、仮に素早くデッサン出来たとしても、その時の色までは再現出来ない。

 特に日の出の時の色彩の変化はデッサンしている間にどんどん変化してしまう。

 そこで水彩絵具の様に油絵具の色でデッサンしていく方法をモネは取った。

 そして、モネはそのデッサンを浮世絵のように完成された絵として発表したのである。

しかも、主義・主張を持ってimpressionnisme的に、つまり浮世絵主義的に描こうとしなければここまで徹底的にデッサン的な水彩画調には描けないために、モネは敢えてこの絵のタイトルに『impression―日の出』とimpressionの文字を付けたのであろう。

 中傷され、メディアによって書き騒がれたがゆえに、モネの主張が『impression―日の出』の絵と共に歴史に刻み付けられ、それによってルネサンス以降のギリシャ様式古典的絵画のアカデッミック絵画の支配がこの絵の前において崩れ去ったのである。ゴッホの友人であった画家エミール・ベルナールは、

「かつてクロード・モネ(Claude Monet)は、オランダ旅行をしていた時に、世話になった人のホテルの家で日本の版画(une image japonaise)を見て、それを手本に自己の名声につながった一連の作品を残し、近代絵画にあれほどの影響を与えることが出来たと言われている。
私はどこまでそのような陰口(cancan)を信用してよいのかは分からない。とにかくゴッホがこのインプレッションニストの連中達の絵に参ってしまうと、彼等、impressionnisme(インプレッショニスム)が生まれた源まで真っ直ぐにさかのぼって必要な知識を学び取るゴッホの賢明さには感心させられてしまうのである。」
(ゴッホの手紙 ベルナール宛 序文)

 と述べている。

 ここでゴッホがインプレッションニストに出会う前、つまり1886年以前にモネが浮世絵の手本から描いた絵によって自己の名声に繋がったとベルナールが指摘している絵といえば当然の如く『impression―日の出』が第一に挙げられるだろう。

 何故なら、モネの有名な<積みわら>の連作はゴッホが死んだ翌年の1891年であり、またジヴェルニーで描いた<睡蓮>の連作は20世紀に入ってからの話だからである。

 つまり、モネが『impression―日の出』を発表した1874年の頃は食べるのにも大変でマネに生活援助を受けていたくらいに全く無名な存在だったから浮世絵の技法を使った『impression―日の出』の発表からImpressionを象徴する画家として有名になったのである。

 そこで、モネが『impression―日の出』騒ぎの後にマネを誘って舟遊びをしたが、その時に描いたマネの『浮かぶアトリエのモネ』(図5)を見ると船に乗ったモネと一緒の女性の輪郭や背景が黒の線で表現され、船の黒と船に乗っているモネや女性の白とが対照的に描かれているところは将に黒と白の対照色が特徴の浮世絵的絵画と言えるものなのである。

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(図5)『浮かぶアトリエのモネ』

 又、背景となる遠くの河岸の向こう側には明るい青い空に煙突の煙がモウモウとたなびいている。そう、モネの『impression―日の出』の様な光景なのである。

 つまり、マネが描くキャンパスの絵にはモネの『impression―日の出』に似た光景の河岸の様子がぼんやりと描かれているのだ。

 そして、同時に描かれた連作の『アトリエのクロード・モネ』(図6)は従来の油絵の概念を全く打ち破って黒の線と白と灰色の彩色との対照的な浮き出し効果で全体を表現している。

 つまり『浮かぶアトリエのモネ』よりさらに絵画の浮世絵的効果を強調した作品となっている。

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(図6)『アトリエのクロード・モネ』

 そして、この絵を見る人の視点はいつの間にか『アトリエのクロード・モネ』に描かれたモネの顔に注がれるだろう。

 何故なら、モネの顔がその隣に座る女性の顔と比べてかなりぼやかしているからである。

 それは、視えないものを視ようとする観客の心理を強く引き付けるのである。

 この様にモネの顔をぼやかした意図の背後には、モネの『impression―日の出』で強調された、“ぼやかし”の特徴の絵画を擁護する形でマネなりに表現しているからであろう。

 そして、モネの経済的困窮は『impression―日の出』騒ぎ以降も変わらず、翌年の1875年もモネはマネに自分の絵を100フランで買ってくれる人を探してくれないかと頼んだほどである。

 しかし、マネはモネの絵を画商やコレクターが買うのを断るのを恐れてテオドール・デュレにマネと二人で500フランの援助をモネに知られないようにしてあげたらどうかと手紙を出す。

 つまり、このような経済的困窮時代の中でのモネは仲間たちに呼びかけて第一回の展覧会を開き、その記念すべき展覧会の絵として『impression―日の出』を選んだのである。

 それゆえ従来のアカデミックな古典主義絵画から見れば子供じみた作品と当然批判を招くような絵画を発表し、そのタイトルの「日の出」にわざわざ「impression」と言う言葉を加えたことは「impression」こそがモネの主義主張とも言えるだろう。

 将に、『impression―日の出』はベルナールが指摘するように近代絵画に大きな影響を与えた金字塔的象徴絵画なのである。

 とすれば『impression―日の出』は日本の版画つまり、浮世絵を手本にしたモネの代表作と言えるだろう。

 そして、モネは1876年の第二回印象派グループ展に浮世絵日本を象徴するような『ジャポヌリー』(図7)という題の作品を出品した。

 後に『ラ・ジャポネーズ(日本女性)』と呼ばれて人々の知るところになる。

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(図7)ボストン美術館蔵

 絵の題材はモネの奥さんが立体的装飾模様の日本の着物を着て扇子(せんす)を持ち、背景には団扇(うちわ)が無数に描かれ、その団扇には浮世絵などが描かれている。

 そして下に敷かれているのはカーペット風の日本のゴザである。

 ところで、話をベルナールの序文の記述に戻すが、ベルナールがimpressionnisme(インプレッションニスム)が生まれた源までゴッホが遡ると述べている事はもちろん源とは浮世絵のことである。

 ゴッホは1886年パリにおいてコルモンの絵画塾でロートレックやエミール・ベルナール等と会い、彼らが創る新しい画壇運動に共鳴する。

 そして、ゴッホはすぐにロートレックやゴーガン、スーラ達と共にアヴァンギャルドの仲間入りをする。

 その運動はインプレッションニストの流れを受けて、同じく浮世絵技法から新しい西欧絵画を作ることにあった。

 そして、モネがカフェ・ゲルボアに集まった画家達を集めて展覧会を開いた様に、ゴッホもまた、アヴァンギャルドの仲間達を誘って、1887年冬、モンマルト丘の下を横切るクリシー通り沿いのカフェ・レストラン≪ル・タンブーラン≫で展覧会を開いた。

「僕がタンブーラン(Tambourin)で行ったクレポン(crèpons)の展覧会はアンクタンやベルナールに大きな影響を与えたが、あのとおりのざまだ」
(書簡510 アルル 1888年)

 そして、モネやドガ、ピサロなどの画家達の絵がパリのキャピュシーヌ大通りから始まってモンマルトの大通りにある大手画廊で展覧会を開く事から、グラン・ブールブァール(大通り)のimpressionniste(インプレッショニスト)としてゴッホは呼んだ。

 そして、ゴッホを中心として≪ル・タンブーラン≫で催された展覧会に参加したベルナール、アンクタン、ゴーガン(ゴーギャン)、ロートレックやスーラ等の画家達をゴッホはプチ・ブールブァール(裏通り)のimpressionniste(インプレッショニスト)と対比的に呼んだ。

 「実際に僕は真に裏通り(Petit Boulevard)のインプレッショニスト(impressionniste)であるし、その立場を維持し続ける腹づもりだ」
(書簡473 テオ宛 アルル 1888年4月上旬)

 と、ゴッホアルルにおいてもテオに自分は裏通りのインプレッショニストと述べている。

 そして、その後の書簡では、

「僕達は浮世絵(japonaiseries)について良くは知らない。しかし幸いにフランスの “日本人”― impressionnistes(インプレッショニスト)について、僕達はもっとたくさん知っている。これこそ最も重要で大事なことだ」
(書簡511 テオ宛て 1888年)

 と述べている。

 ここでもimpressionniste(インプレッショニスト)はフランスの “日本人”とゴッホが述べていることから、impressionniste(インプレッショニスト)はフランスの“浮世絵師”となる。

 そもそも、このimpressionを翻訳する時に一体誰が、“印象”と和訳したのであろうか。

 そこで、インプレッションニスト(日本では印象派画家と訳された)と言う言葉について日本で探し出せる資料の中で最も初期の頃のものといえば明治43年12月10日に発行された「萬朝報」の第6236号で、「マネとポスト・インプレッションニスト」と題された展覧会の記事の中にこの言葉を見つけることが出来る。

 つまり、このポスト・インプレッションニストを‟後印象派画家”と訳されたのがどうやらインプレッションニストの訳語の始まりと言えるだろう。

 後にこの‟後印象派画家”が後期印象派画家と間違われ、今日ゴッホやゴーガン(ゴーギャン)、ロートレックなどの画家たちの絵画を美術史で後期印象派絵画と呼んでしまっているのである

 例えば、美術の専門家にインプレッションニストの絵、つまり印象派画家の絵とはどんな絵ですか?と聞けばモネの「印象―日の出」の言葉の由来の説明から始まってマネやルノワール、シスレーなどの画家の絵を印象主義絵画と呼び、それに続いて後期印象派のゴッホやゴーガン(ゴーギャン)、ロートレックの絵を説明するだろう。

 しかし、印象主義の特色である“印象的な絵”とはどんな絵をいうのか?と問えば、ある人は画家がアトリエから出て太陽の下で描いた明るい絵と答えるかも知れないが、それならば外光派とどう違うのかである。

 そこで、“印象的な絵”とは何か?とさらに質問すれば、それ以上に答えられる学者や研究者、さらに言えば画家でさえ日本にはほとんどいないのではないだろうか。

 となると、後印象派画家、あるいは後期印象派画家であろうとインプレッショニストの本来の意味をわからない画家たちはマネやモネ、さらにはゴッホやロートレックの単なる真似だけを追求し、終には訳もわからない抽象画に入ってインプレッショニストの絵画の流れを止めてしまうのである。

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