五井野正博士のその他の原稿

2015年6月11日(木)

Impression美化運動のウイッピーからゴッホの心情と歌川派の再生

ロシア国立芸術アカデミー名誉正会員
ウクライナ国立芸術アカデミー名誉教授
ウイッピー総合研究所 所長 五井野 正

 私が中学生の頃は美術といえば全く駄目で、驚かれるかもしれないがゴッホについても名前だけは知っていてもゴッホの代表作である「ひまわり」とか「アルルのはね橋」の絵など何も知らなかったのである。

 せいぜい知っている絵と言えば当時、作者名は知らなかったが、『忘れ得ぬ人』(クラムスコイ作)という題の絵だけだった。

 何故ならその絵が好きだったからである。

 だから色々な絵の作品の作者名もしくはタイトル名を番号で選べと言う美術テストの時は全くチンプンカンプンで、美術は通信簿が赤点の2も取ったような記憶を持っている。

 今思えば、授業中に美術の教科書くらいは開いていたとは思う。

 つまり、ミロの絵やピカソの『ゲルニカ』、ムンクの『叫び』などは印象的に残っているけれど、作者やタイトル名までは覚えられなかったのである。

 多分、絵に全く興味が無かったのと、作者やタイトル名のカタカナ用語がスンナリと頭に入らなかったのだろう。

 もっとも、中学一年の美術授業の始め頃だったと思うが、人顔の表情を想像で自由に描いたら、教師はこの絵を市(県だったかは忘れた)のコンクールに出したいからもっと大きな絵にしなさいと言われた。

 しかし、私は授業中以外に勉強をしたこともないし、もちろん家に帰って好きでもない絵の宿題なんか当然する気もないから何も描かなかった。

 と言うのも、自分に絵の才能があると思っても見なかったからである。それゆえ、私の美術の評価は下がった。

 それと言うのも、小学校5年生の頃から、私が算数や理科が並外れて得意だったので授業中にガモフ全集など読んでいたのを注意されると逆に教師に質問攻めをして、担任の教師としての立場を失わせていたのである。

 そこで、私が美術の授業で見える通りに描かないのを幸いに担任の教師は私の絵が下手だと採点するだけでなく、図工の教科も意味もなく不器用と言われ続けていたから、自分でも教師に言われるままにそう信じてしまった経緯があった。
 それゆえ美術に全く興味を失っていたのである。

 その代わり、科学に関しては小学校の頃から教科書の範囲を超えて私と比類する人にも出会うこともなく、ゆえに孤島の心境であったから日本の大学に進学せず、二十歳で日本に見切りを付けてスウェーデンのストックホルム大学に進学するために西欧の旅に出た。

 横浜から船でソ連(今のロシア)のナホトカまで船に乗り、ナホトカからハバロスクまで夜行列車、それからプロペラ飛行機でモスクワ、そして、モスクワからレーニングラード(今のサンクトペテルブルグ)を経由してフィンランドのヘルシンキまで列車で行き、そこからフィンランドのトゥルクまで、また列車の旅になり、トゥルクからスウェーデンのストックホルムまで大型フェリー船でやっとストックホルムにたどり着くという長い旅だった。

 ストックホルムでの滞在の目的は、まずスウェーデンのストックホルム大学スウェーデン語教室で学ぶことだった。

 ストックホルム大学のスチューデントハウスに住んで、北欧の教育環境と自然に感激していた毎日だった。スチューデントハウスでは友達も多く増えた。

 そして、スウェーデン語教室に通っている間に縁があってフィンランドをヒッチハイクすることになった。

 ストックホルムから再び大型フェリーであるバイキング号でトゥルクに向かい、一週間くらいサウナハウスに泊まってトゥルクから北極圏のペロまで行き、戻ってからヨーロッパ諸国の旅に出た。

 しかしながら、パリに着いてもルーブル美術館やオルセー美術館に訪れる事もなく、又、オランダのアムステルダムに旅してもゴッホ美術館に行く事もなかった。

 小学校の担任の教育が未だに人生に大きな影響を及ぼしていたからであろう。

 そして、再びストックホルムのフォルスカバッケン(スチューデントハウス)に戻ったのだが帰国チケットの有効期限が間近なため、ヨーロッパの旅もそろそろ終えて日本に帰国する頃の事だった。

同じ建物に住むスウェーデンの学生達とお別れのパーティーを開いていた時に、ハウスの友人から「日本は毎日働いてばかりいながらも、どうして貧しく汚いのだ。」とみんなの前で言われた。スウェーデン人になろうとしていた私は、友人の疑問に、自分が日本人であることを否応なく認識せざるを得なかった。

 そこで、私は日本に戻って日本をスウェーデンのように豊かに美しくして戻ってくるとスウェーデンの学生たちの前で宣言をしたら、拍手で激励された。この国ではCanではなくWillが尊ばれる事に私の心は大きく感動した。

 そこで、日本に帰ってから先ず日本の象徴である富士山から始めようと考え、麓の都留市にワールド・インテリアと言う名前の美術・工芸店を開いた。

 何故なら、産業の豊かさは自然破壊をもたらしてしまっているし、日毎に工場や都市生活より生み出される廃棄物は日本中をごみの山にしてしまっている結果を招いて、美の世界とは全く反比例していたからである。

 それゆえ、私が願う『豊かに美しく』と言う概念と全く違うため、その目的を実現する為に、芸術による豊かさを考えたのである。

 さもないと日本は真に豊かになれないし、それには西欧都市の様に芸術文化的な進歩が必要と考え、そこで都留文科大学の学生たちに世界の美術工芸を通して文化の価値観と興味を与えたいと思ったのである。

 その様な観点から、美化的な環境問題に取り組み、富士山五合目でのゴミの埋め立て処理の現状や富士五湖の水質汚染の問題や改善などを訴え、かつ道路や野山、湖に散乱する空缶問題を空缶公害と定義して国や企業、消費者の三者の責任と協力を訴えたのである。

 そして、この様な自然環境汚染に対して無責任な企業や環境庁には実力行使を交えて訴えた。やがて国や企業、そして国民も環境汚染に責任を持つほどに意識が変わってきた。

 この様な運動をワールド・インテリア(World.Interior)から出発した為に、World.Interior.Picture.Product.Instructive.Institute(世界知的絵画生産教育研究所)=WIPPII(ウイッピー)と命名した。

 このウイッピー運動は、テレビや新聞、ラジオに何十回となく報道され、NHKが異例の「ウイッピー・アピール」と言う個人的タイトルの15分間の番組にまで放送するなど、ほとんどの日本国民がウイッピー運動を知るようになった。

 しかも、ウイッピーの名は当時の朝日用語辞典に掲載された程の公用語となった。

 その運動の過程で、某飲料メーカーが私と対面する形で、空缶公害に関する記者会見をした事があった。

 その時、その大手メーカーの部長がリタン・サイクルと言う言葉を使って、行政(市町村)の責任を問うだけでなく、ポイ捨てする消費者側にも責任があると説明したのである。

 そこで、私は資源のサイクルの再生と言う意味でリサイクルと言う言葉に置き換え、「リサイクルも生産なり」というキャッチフレーズを作り出して、企業にもリサイクルに責任を持つべきだと主張したのである。

 つまり、生産は豊かにするけれども使い捨てによって美しさを損なう。

 しかし、リサイクルは再生産な為、豊かにするだけでなく美しさを保存したり回復したりすることが出来る。

 すなわちリサイクルこそが『豊かに美しく』を可能にさせられると思ったからである。

 おりしも、1974年という時代は石油ショックの時代で、欧米世界は石油を使わないという縮小経済に入った時だった。

 しかし、日本では私の提案したリサイクル、そして省資源のキャンペーンによってそれまでの使い捨て主義の国民意識が変わり、それゆえ日本の社会、産業構造までが変わった。

 それによって、日本だけが経済発展して世界一の金持ちの国、豊かな国までになったのである。

 それに反して、私は国民、政府、企業から一切援助を受けなかったから、生活は全く豊かとは言えなかった。

 その様な環境保護運動の後、私の書いた小説がベストセラーになり、出版会社も自主出版から自社ビルを持つまでのそこそこの出版会社までになった。

 そこで、空き缶のリサイクル運動の一環として私の本のファンと共に倒産寸前の電炉の東海鋼(空き缶などスクラップ鉄の再生会社)を救えと言う目的のために、倒産覚悟で大量の株を買ったところ新日鉄を抜いて筆頭株主となった。

やがて、会社が再建され、それによって株価が40倍以上になったので売り上がりながら全株売った。

 それによって得た億単位のお金を本来のウイッピーの主旨である世界知的絵画生産教育研究所の文化運動として日本と西欧の文化の架け橋である浮世絵の収集と普及、そして国民の美意識向上の為に、特に私の場合は北斎を中心に集め、後にゴッホが集めた浮世絵コレクションと同じ浮世絵を世界中から買い集めたのである。

 そして、ゴッホと浮世絵の関係を平成4年に絵に表現して展覧会を行ったところ、世界中から賞賛されエルミタージュ美術館を始め世界各国の美術館で展覧会が催された。

 そこで、さらに世界各国の学生たちに日本の文化である浮世絵を理解してもらうために、浮世絵の収集の過程で重複する絵柄の浮世絵や不必要な浮世絵を世界中の学校や美術館に一万点のオリジナル浮世絵を寄贈する運動を行った。

 それが今日までの芸術の分野におけるウイッピー運動である。

 ひとえに、スウェーデンの学生たちの激励から始まった「豊かに美しく」が、こんなにまで私の人生を動かし、世界を動かしたのである。

 ところで話は戻るが、私がゴッホの漢字に関心を持ち始めたのは1987年にゴッホのレプリカ作品である14本の向日葵の絵画が日本の生命保険会社によって53億で落札されたことからである。

 それまで、私は相変わらずゴッホの名前は知っていてもゴッホがどんな作品を描いていたかなんか全く知らなかったし又、興味もなかった。

 それどころか、私は北斎に感化されてひっそりと北斎の浮世絵コレクションをしていたので、レベルの質や収集している数の面で世界のトップクラスに入るのではないかと一人自負して楽しんでいたくらいだった。

 だから、へたな広重の浮世絵など全く馬鹿にして、広重画の縦長2枚続きの「猿橋」の名品や「魚づくし」などの浮世絵数点とその他の名品数十点位しか評価をしなかったし収集もしていなかった。

 ゆえに本来、広重のコレクター、あるいは研究家だったら誰でも知っていただろう、あの広重の名所江戸百景シリーズの中の「大はし阿たけの夕立」と「亀戸梅屋舗」の写しであるゴッホの『雨中の大橋』や『江戸内大木』(通称:花咲く梅ノ木)の作品など全く知らなかったのである。

 ところが、ゴッホの絵が驚異的な金額で落札された事に驚きを越えて怒りさえ覚えてしまったことから、また私の社会運動が始まってしまった。

 何故なら、ゴッホを含めてインプレッショニスト(印象派と訳されてきてしまったので以下、印象派とする)に大きな影響を与えたのは、なんと言っても日本の浮世絵であり、その最たる頂上にいるのが北斎なのである。

 それゆえ、ゴッホのレプリカの絵一枚の落札価格の金額で世界中にある北斎が買えると思ったから、西欧優越主義の教育を受けてきた日本国民に、日本の文化の凄さをもっと自覚してほしいと考えたからである。

 つまりその当時、北斎の浮世絵の値段が既存の絵画に比べて評価的に非常に安かった。

 金満国と皮肉られた日本人が全く日本の文化に関心も知識も、誇りにも思っていない結果の表れだと腹立たしく感じたからである。

 しかし、北斎のコレクターならば人が買わないので結果的に安い価格で北斎のコレクションが出来ると思ってそれで善しとすべきところを、私が編集長をしていた『ふる里村情報』で、ゴッホを含めてマネ、モネ、ロートレック等の印象派達が浮世絵から特に北斎から大きな影響を受けていたと日本文化の再認識と復活を世に提唱してしまったのである。

 この私の提唱に、即座に応じてくれたのが、なんと天皇、皇后両陛下(当時、皇太子ご夫妻)だった。その当時、浮世絵といえば春画と思われた時代で、その庶民的な浮世絵展に天皇、皇后両陛下が自らお出ましになられたのだから、朝日、NHKが慌てて北斎特集を放送したり、印象派と浮世絵の関係を特集し始めたのである。

 ところが、にわか浮世絵学芸員や研究家たちがもてはやされ、ずいぶんと彼らの間違った説がマスコミを通して広く国民に植え付けられてしまった感を私は受けてしまったのだ。

 となると、印象派と浮世絵の関係、特にゴッホと浮世絵の関係を研究するためにゴッホの書簡を1つ1つ調べたのである。

 すると、意外や意外、実にゴッホは弟テオと一緒に浮世絵を650点近くコレクションしていた事が分かり、さらにモネも浮世絵を200点以上集めていた事を知ると、その彼らの絵柄の浮世絵コレクションを収集することに大変興味を持った。

 そこで、印象派と浮世絵の関係の真実を世界の人々に伝えると同時に、ゴッホやモネが集めていた同等の浮世絵がまだ美術館や浮世絵コレクターの収集の対象になっていない事からリサイクル運動に参加した有志達にも呼びかけて世界中から同様の浮世絵(版画なので同じ物が何点とある)を密かに集め、今では世界で唯一の完成されたゴッホの浮世絵コレクションとして世界の美術館からも認知される程になった。

 そして、ゴッホの集めた浮世絵コレクションとゴッホのジャポネズリ絵画の関係の研究を進めると胸に秘めていたゴッホの思いがゴッホ絵画の中で漢字や図を使って表現されていた事が次々と明らかになってきた。

 すなわち、ゴッホの書いた日本文字や浮世絵様式の絵画の謎を次々と解明すればするほど、今までの教科書的なゴッホ像は将に虚像として私の脳裏からもろくも崩れ、代わりに浮世絵から啓示や運命を受けて、叫びながら彼岸の日本に向かって橋を渡っていく、真のゴッホ像が浮かび上がってきたのである。

 そういう意味で、今から20年前に早くも私が世界で最初にゴッホの日本文字の解読に成功したということになるが、その解読の結果、真実のゴッホの心を知った私はゴッホの気持ちを世界中の人々に伝える責務が当然の如く生まれてしまった。

 そこで、ゴッホのみならず、印象派のルーツである浮世絵の再現と普及のために、ゴッホの浮世絵コレクションの完全なる再現だけに留まらず、ゴッホの絵画と浮世絵を継承する画家となって江戸最大の浮世絵師集団であった歌川派の再興と、ゴッホ絵画の真実を世界に示す使命をゴッホから与えられてしまったのである。それは、

「L’art japonais(浮世絵)は本国(日本)では衰退(すいたい)期(décadence)に入っているが、フランスのインプレッショニスト(浮世絵派)の画家達の中に再び根づいている」
(書簡510 テオ宛 アルル1888年7月15日頃)

とゴッホがテオに述べ、次の手紙で、

「希望(L'espoin)を持つが、しかしーその希望はちりばめた星(les étoiles)の中にある……(中略)この地球も同様にして一つの惑星であり、それ故、一つの星あるいは天球であることは忘れない……(中略)時間が必要とされる光輝な芸術は人生以上に生き続けることは不都合なことではない。ギリシャ人が、昔のオランダ人の巨匠が、又、日本人が他の天球の中で連々として、彼らの輝いた流派(りゅうは)(école gloriense)を続けていると思うことは、大いに楽しいことだ」
(書簡511アルル 1888年7月19日頃)

と、述べていることに運命的な示唆を感じたのである。

つまり真の芸術は時間と空間に閉ざされることなく脈々と続くもので、浮世絵芸術が日本で廃れてもフランスのインプレッショニストたちに、そしてゴッホに流れてさらに偉大な芸術に発展する。

 ゴッホの芸術が偉大であればあるほど、当時の人々には理解が困難となり、ゴッホの一生で理解されなくても時間、空間を越えて再び別な天球で、その芸術価値に気づいた生命が復興し、継承していく。

 そして、その天球の中の一つにまた地球がある。

 ゆえに、真の芸術はその創造者と共に一時的に歩みが止まったとしても宇宙の倉庫、つまり天球の中に閉まれるだけであって、再びその扉を開ける芸術家によって再び歩み始める。

 この様な芸術運動の流れを心情主義と命名し、私は心情派としての絵画を制作することになる。

 カントは人間の最終的価値観に真善美を定めた。

 科学は真理の探究であるが必ずしも善や美は伴わない。

 宗教や政治は善行を主にするが、真理の探究や美の追求は往々にして求めない。

 美は自然の中に始めから備わっているが、真理や善を隠し持ってしまう。

 それを取り出すには美の内面に迫り、内面の美を引き出すのは芸術の力である。

 それゆえ、この世に真実を見出す事は盲目の煙と暗闇の中で出口を探し出すようなもので、出口が見えないこの世は悪の力が支配し、善をなすものは宝石のように希少価値であるが、その善行も磨かれなければ光輝は発しない。

 その中で、美だけはこの世の楽園であり、人々の休息である。美だけは全ての人類の共通の意識であり、財産である。美によって人々の心と魂は宇宙の天球に浮かび、意識は天球を繋ぐ。

 ドフトエフスキーは「美は世界を救う」と確信した。それゆえ美は盲目と暗闇のこの世に指す一条の光で、芸術はその光への道標である。

 ゆえに、美を知らない科学者はかたわであり、破壊者となる。

 そして、美を顕さない宗教者や政治家は内面の汚れたエセ行者となる。それゆえ私は科学から芸術への道を歩み、次なる天球を開く事をゴッホの言葉から強く感じ取った。それがウイッピーの精神である。

* * *

 また話が長くなってしまったが、ゴッホが前述した書簡511で、‘輝いた流派’と記述した文章は、当然の如くゴッホの絵画に最も影響を与えた歌川広重の『大はし阿たけの夕立』や歌川豊国の『今様押絵鏡』の作品など、明らかに歌川派門人達のことを指しているだろう。

 実際に、江戸末期の浮世絵のほとんどは歌川派門人達の絵で独占されていた程、歌川派の全盛時代であった。それゆえ、ゴッホの浮世絵コレクションもその多くが歌川派の浮世絵であった。

 しかも、ゴッホは歌川派の絵だけに魅了されたのではなく、歌川派門人達の生活にも憧れた。

 そこで天球の光輝ある流派、つまりゴッホは歌川派の門人たちに向けてジャポネズリの絵を制作し、その絵の中でゴッホの隠された想いとメッセージを日本文と色彩で表現したと私はゴッホの絵の謎を解いたときに理解した。

 ゴッホはジャポネズリの絵を描いた後、今度はアルルを日本に見立て、つまり時間と空間を飛び越えて、

「ここで、僕はますます日本画家(peintre japonais)の生き方で、自然の中に小市民(petit bourgeois)として上手に生きていく」
(書簡540 アルル 1888年9月22日頃)

 と、自らを歌川派の浮世絵師としてアルルに歌川派の工房と同じ様な画家の共同工房を造ろうとした。

 それがゴッホの黄色い家だった。

 そして、ベルナールに、

「僕は前から日本の芸術家たちがお互い同士の良い経験(pratigué)をよく教えあっていたことに長い間感動(torché)してきた。そのことは彼等の間に一つの確かな調和(harmonie)が支配する所の絆が築かれていたという証拠だ」
(ゴッホの書簡B18 ベルナール宛 アルル 1888年9月末)

 と述べる。

 ゴッホは画家でもあるが絵と言う芸術を通して人生哲学を語る伝道師でもあった。

 そこで私はゴッホの一途な精神と深い哲学に裏付けられたゴッホの言葉を真に理解する為に自らもゴッホと同じ様に歌川派門人の境地で実際に体験してみなければ、ゴッホの絵を真に理解することは不可能だと思ったのである。

 このような理由から、明治に廃れた歌川派を復興するために歌川派門人会を1990年8月に創立したのである。

 そして、当時の歌川派の浮世絵師達の歴史研究や絵画技法の研究、実践を通してゴッホのジャポネズリの絵画の文字や絵柄の謎を次々と解明したが、今度はそれを人々に説明する場合、どうしてもゴッホの絵が必要になってくる。

 もちろん、ゴッホの絵を美術館から借りて展覧しながら説明する事は到底不可能な話である。そこでゴッホの場合は

「僕はたくさんのジャポネズリー(浮世絵)をもう一度手に入れる機会がないのに我慢がならないみたいだ。結局、自分自身で作って追求していくしかない」
(書簡505  1888年7月 アルル)

 と、述べていることから、私もゴッホに見習ってゴッホの絵画を歌川工房を設立し、ゴッホを浮世絵の中に描いた浮世絵風油絵を製作して芸術による心情的な流れを展覧会として人々の前に発表したのである。

 すると、半年も経たずして日本各地のギャラリーや美術館で展覧会が行われ、さらに浮世絵が好きな外国人によって大いに評価されて米国やロシア等の海外の美術館で展覧会を次々と催す事になった。

 特に、ロシアの国立プーシキン美術館(1995年)では記録的な反響と入場者数を数える程に大人気となり又、世界三大美術館に比されるエルミタージュ美術館(1995年)では私の雅号である歌川正国の特別展も開かれ、そこで現存作家初めての個人展覧会が開催されたと言われるほどの記録を作った。

 そして、世界的建築家の故丹下健三氏の場合はソ連時代だったのでソビエト連邦芸術アカデミーの名誉会員だったが、私の場合はロシア時代だったので、日本人として初のロシア国立芸術アカデミーの名誉会員に満場一致で選ばれたのである。

 それからは、各国のアカデミー会員や名誉教授に次々と推薦され、各国のゴッホの講演では聞く人が皆、涙を流すなど大好評となった。将にゴッホから感謝を受けたかと思われる位の光栄の心境である。

 しかしながら、1994年の福岡県、田川美術館の展覧会から次々と某宗教団体のボスの命令による妨害行動を受け、さらにエルミタージュ美術館の展覧会が決まった時には、一面トップで掲載する予定だった大手新聞社2社にも圧力が加わって、それからのマスコミ報道が政治力と広告収入などの金力で一切止まってしまった。

 さらに、1995年の12月に出版した私の「科学から芸術へ」の著書が同じく、日本の前述した宗教団体によって言論出版妨害を受け、いつの間にか出版社までが買収されるだけでなく、私の活動にあらゆる妨害を加えてきた為にそれからの展覧会は困難になっただけでなく、ゴッホの日本文字解読の本の出版も出来なくなった。

 しかしながら、権力の妨害を受けるのは不名誉な様であって実は歴史的には名誉な話である。

 と言うのも、レオナルド・ダ・ヴィンチやクールベ、さらには印象派の祖であるマネやそれに続くルノアールやモネ、ゴッホ、ロートレック等の後期印象派やピカソ、ダリ等の天才と言われた画家たちは迫害やスキャンダル事件で洗礼を受けて有名になった歴史があるからだ。

 もちろん、私は天才画家ではないが、その仲間入りの洗礼を同じようにして受けた事になるからだ。

 才あって画家になった訳ではない。

 ゆえに努力型、勉強型の人にとっては、ねたまれの対象であろうし、今の学校教育システム側から見ても、システムの崩壊的な存在で認めがたいものであろう。

 しかし、その様な人達からの迫害等は今のところ受けていないから気が楽である。

 何故なら絵の技量の批判を受けたら反論の余地が全くないからである。

 つまり、小学校教師の独断と偏見によって私は絵の勉強が全く出来なかったから、絵の技量はお世辞にもあるとは言えないのである。

 それゆえ、私は絵画を技量とは別な視点から眺める事になった。

 芸術は技量ばかりではないからである。

 だから、私は画家ではなく、芸術家と自称している。

 それゆえ、ゴッホやベルナールの芸術への洞察力や主張に感銘するのである。

 つまり、今の美術教育システムはゴッホの時代と同じ様に知識的な美術知識や職業画家の為の技術の習得、伝統の模倣技能であって必ずしも芸術を作り出すものではないからだ。

 芸術は独創的で感動的なものだから、技量や知識よりも心眼の繊細な神経が必要なはずである。

 例えば、天才画家と言われたゴッホは1886年、ベルギーのアントウェルペン・アカデミーの絵画教室でアカデミックな絵画の勉強をしたが、夜間クラスで25人の審査委員達の満場一致による最低の評価を受けてしまったのである。

 つまり、ゴッホは8-10歳児が描くような初級クラスの技量しかないとレッテルを貼られてしまい、その年のパリのコルモン画塾でも技巧的な授業に反発して外に出て行ったのは良く知られている事実である。

 芸術家気質というものは技巧的な技術は必要としても技巧的技術に終着点を求めないからだ。ゴッホの良き理解者であり、年下の友人であるエミール・ベルナールは

  「 ゴッホを始めとして多くの芸術家が歩んだ道を理解するには次のことを知っておく必要がある。
  一、学校で美術教育を受ける必要はない。
  二、美とは既存の形式美の模倣ではなく、個性の力がその中に新しい真理を感じとって、さらに崇高なるものまで掘り下げて発散させるものである」
(ゴッホの書簡 ベルナール宛 1893年の序文)

 と、述べて画家と芸術家の相違を鋭く分析している。

 ベルナールの評論ほどに優れた美術評論家の批評を私は今日まで読んだことはない。

 ベルナールの論理によれば、私は小学校の担任の教師のおかげで美術の勉強などまったくしなかったから、かえって担任の教師に感謝をしなければならないのかも知れない。

 と言っても、私の場合は全く例外だと思う。

 何故なら担任の教師の影響が強すぎて美術そのものに本当に興味をなくしてしまったからである。

 それゆえ、科学オタクとして有名だった高校時代の私を知っている友人たちは私が画家になったと知れば一笑にふすであろう。

 そのような私が、前述した東海鋼の株成金になって初めて美術店を巡り、その時にミレーに影響を与えた天明年間の幻の司馬江漢の絵に出合い、この絵なら買ってもいいと絵を初めて買い求めたことから、絵画に興味を持った次第である。

 それからは、北斎の肉筆画、中国の南宋画、北宋画、日本の古画や新画(明治以降の日本画)そして、浮世絵などを次々とコレクションしてきたのであって、もし幻の司馬江漢の絵に出会わなければ絵など一生興味を持たず、買うことも見ることもなかったかも知れないのである。

 という訳で、ベルナールの言葉を借りると、『雨中の大橋』と『花咲く梅の木』のいわゆる一般に言われている広重写しの作品についてゴッホは単なる形式美の模倣で描いたのではない事が良く理解されるだろう。

 つまり、ゴッホの絵が模倣でない事は『雨中の大橋』のゴッホの油絵と広重の「大はし阿たけの夕立」の浮世絵とよく比較して説明すれば誰にでも判ることである。

 それ故、私は先ずこの『雨中の大橋』と「大はし阿たけの夕立」の色彩、表現の違いを人々に説明し、そこからゴッホがいかに芸術的な技巧を浮世絵から学び、それをさらに油絵の西洋画としてゴッホなりにいかに発展させたかを述べ、そこから絵画の流れの指標にしたいと思って海外や日本の各地で講演してきたのである。

 そして、ゴッホの日本文字を解読し、説明することによって真のゴッホ絵画の意図と芸術性を国内外の人たちに明らかにするために講演や芸術活動を通してこれからも進めていきたいと思っている。

 そこには、日本人が忘れていたもの、失ったものが再び世界中の人々の心に蘇る事を願い、さらに歌川派門人会を通して世界中に江戸時代の日本文化を紹介したいし、広めていきたいと思っている今日である。

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